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45話 出発の朝

last update publish date: 2026-09-10 17:00:43

 残り三日になった朝、エリナは夜明け前に目が覚めた。

 眠れなかったわけではない。ちゃんと眠った。でも、空が明るくなる前に、自然に目が開いた。

 台所に行って、湯を沸かした。

 薬草茶を作りながら、窓の外を見た。

 ルシェムの夜明け前の空は、深い藍色だった。

 今日、出発する。

 ゴードンと二人で、王都へ向かう。フィオナと同じ宿に泊まる。明日、最終確認をする。明後日、謁見の間に立つ。

 順番が、頭の中に整然と並んでいた。

 でも今朝は、順番を確認するより先に、別のことを考えていた。

 ここから出発する。

 ルシェムから。

 あの日、母と一緒に屋敷を出た。小さな荷物一つ持って。生後十一ヶ月の自分が、母の腕の中から遠ざかっていく屋敷を見ていた。

 それがすべての始まりだった。

 その場所から、今日、王都へ出発する。

 セレーナが台所に来たのは、空が少し白くなった頃だった。

「起きてたの?」

「目が覚めた」

「緊張している?」

「少し」

 セレーナが隣に座った。エリナが作った薬草茶を、一口飲んだ。

「お父さんの話をしてもいい?」

 セレーナが少しだけ目を動かした。

「もちろん」

「父が王宮に仕えていた頃、出発の朝はどういう感じでしたか?」

 セレーナがしばらく考えた。

「いつも早起きしてたわ。あなたと同じ」

「そうですか」

「宮廷に行く前の朝は、特に静かな人だった。でも、目だけが違った。いつもより、遠くを見てる目をしてた」

「遠くを見ている目、とは」

「次のことを、もう見ている目。まだここにいるのに、すでに次の場所にいるような」

 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。

「今の私は、そういう目をしていますか?」

「似てる」

 セレーナが穏やかに言った。

「でも、少し違う」

「どう違いますか?」

「お父さんの目は、遠くを見ていた。でも、あなたの目は、遠くを見ながら、ここも見ている」

 エリナは窓の外を見た。

 空が、少しずつ明るくなっていた。

「ここも見ている、というのは?」

「ルシェムを。私を。ここで待っている人たちを。お父さんは、あまりそういう目をしなかった。次のことが大きすぎて、足元が見えにくかった人だから」

「それが、弱点でしたか?」

「弱点というより、そういう人だった。でも——」

 セレーナが少し笑った。

「あなたは、ちゃんと両方見ている」

 朝食を食べた後、マリオが来た。

 いつもより少し早い時間だった。

「見送りに来た」

「ありがとうございます」

「大したことはできないけど、見送りくらいはしたい」

 エリナは荷物を確認した。

 報告書の最終版。確認書。データの書類。着替え。薬草茶の葉。それとルナが持たせてくれた小さな布袋。中に、手作りの解熱薬と風邪薬が入っていた。

「念のため」

「念のためは大事です」

 とエリナが答えると、ルナが珍しく小さく頷いた。

 荷物を確認し終えて、エリナはルナに言った。

「留守の間、作業場とルシェムの現場を頼みます」

「わかった」

「猫も」

「猫も。ちゃんとやる」

「信頼しています」

「知ってる」

 ルナが、珍しくエリナの方を少し長く見た。

「エリナ」

「何?」

「頑張って」

 ルナが「頑張って」と言ったのは、初めてだった。

 エリナは少しだけ止まった。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 グレンが、長屋の前に来ていた。

「見送りか、と思って来た」

「来てくださったんですか」

「遠くないから」

 グレンが、大きな手でエリナの頭を一度だけ、ぽんと叩いた。

「行ってこい」

「行ってきます」

「ちゃんとやれ」

「やります」

 それだけだった。

 グレンは、それ以上は何も言わなかった。でも、それだけで十分だった。

 ハンスも来ていた。

 マリオの父親だ。作業場の壁を直してくれた人。最初に木の容器を作ってくれた人。

「ハンスさん」

「行くのか」

「はい」

「何か、足りないものはないか?」

「全部、揃っています。ハンスさんのおかげで」

 ハンスが少しだけ、目を細めた。

「うちの倅が、世話になっている」

「マリオにこそ、世話になっています」

「あいつはお前がいると、いきいきしてる。それで十分だ」

 エリナは、その言葉を受け取った。

 ゴードンが馬車の前で待っていた。

 荷物はすでに積んであった。手際が良い。

「準備はいいですか?」

「はい」

「では、参りましょう」

 馬車に乗ろうとした時、マリオが言った。

「エリナ」

「何?」

「一つだけ言っていいか?」

「どうぞ」

「俺は、ずっとここにいる。帰ってくる場所がある」

 エリナは少しだけ止まった。

「わかっています」

「でも、言いたかった」

「……ありがとう」

「それだけだ。行ってこい」

 マリオが少し笑った。目が、少し赤かった気がした。

 エリナは馬車に乗った。

 馬車が動き出した。

 窓から外を見ると、長屋の前に人が集まっていた。

 マリオ。ルナ。グレン。ハンス。

 それぞれが、それぞれの立ち方で立っていた。

 マリオが手を振った。

 ルナが少しだけ手を上げた。

 グレンは腕を組んで立っていた。

 ハンスは静かに頷いた。

 馬車が進んで、長屋が遠くなった。

 エリナは窓から、遠ざかっていく長屋を見ていた。

 没落して、この長屋に来た日のことを、少しだけ思い出した。

 母と二人で、小さな荷物を持って来た日。

 あの時、この長屋が自分の場所になるとは思っていなかった。

 でも、なった。

 今、この場所から出発する。

 帰ってくる場所がある、とマリオが言った。

 そうだ、と思った。

 ゴードンが、少し間を置いてから言った。

「いつもより、多くの人が見送りに来ていましたね」

「そうですね」

「みんな、何も言わないが、待っているということです」

「知っています」

「知っていても、言葉にすることが大事な時があります。私も、言っておきたいことがある」

「どうぞ」

「エリナさん」

 ゴードンが少し間を置いた。

「私が商人ギルドで告発して、居場所を失った時、正しいことをしても報われないものだと思っていた」

「そうだったんですか」

「そうでした。でも、この一年で、少し考え方が変わった。正しいことをしても、すぐには報われないかもしれない。でも、正しいことの記録は残る。誰かが、いつかそれを見る」

「父の記録が、学院に残っていた」

「そうです。アッシュフォード侯爵の案は、消えなかった。あなたが、今日それを持って王宮に行く」

 エリナは窓の外を見た。

 街道が続いている。

「ゴードンさんの告発の記録も、どこかに残っていますか?」

「どこかにあるはずです。ギルドが消したかもしれませんが、あの時私から話を聞いた人間が、何人かいる。記録は、文書だけではない」

「そうですね」

「あなたが今日持っていく数字も、同じだと思います。報告の場が終わっても、その数字は消えない」

 宿場町で一泊して、翌日の昼に王都に着いた。

 フィオナが、宿の前で待っていた。

 今回も、直接会う場面だった。

 エリナが馬車から降りると、フィオナが一歩近づいた。

「来た」

「来た」

 また、二文字だった。

 でも、今回のその二文字には、前回より多くのものが入っている気がした。

「準備は?」

「整っている」

「報告書は?」

「持ってきた」

「確認書は?」

「持ってきた」

「全部ある?」

「全部ある」

 フィオナが少しだけ息を吐いた。

「よし」

 それだけ言って、宿の中に案内してくれた。

 その夜、三人で夕食を食べた。

 ゴードンとフィオナとエリナ。

 料理は、宿のものだった。質素だが、温かかった。

 食べながら、フィオナが言った。

「明日、謁見の前に十分確保してある。殿下が確認してくれた」

「ありがとう」

「当日の流れを、今夜確認しておく?」

「お願いします」

 フィオナが手帳を開いた。

「午前十時、謁見の間。まず陛下が入場。次に高官と貴族たち。クロヴェル侯爵は右側の列に入る。学院の師匠とレインは、左側の壁際に立つ形になる。あなたとゴードンさんは、中央の少し前に立つ」

「レインが、同じ部屋にいる」

「いる。でも、発言できる立場ではない。師匠の記録担当として同席する形だから、発言は師匠だけ」

「わかりました」

「あなたの発言は、報告書を読み上げる形ではない。要点を話す形になる。長くて三十分、短ければ二十分くらいを想定している」

「報告書は、事前に配布されますか?」

「陛下と高官には、前日に届けてある。アルバ殿下が手配してくれた」

「では、当日は補足と質疑応答が中心になる可能性がある」

「そうなると思う。クロヴェル侯爵が、途中で発言することもあるかもしれない」

「想定しています」

「その時、どうする?」

「事実を言う。感情では返さない。数字で返す」

「それが、あなたらしい」

 フィオナが少し笑った。

「でも、一つだけ追加で言いたいことがある」

「何ですか?」

「感情で返さなくていい。でも、感情がないふりもしなくていい」

 エリナは少しだけ止まった。

「どういう意味ですか?」

「謁見の間には、いろんな人がいる。数字で動く人もいれば、感情で動く人もいる。あなたは数字で語るのが得意。でも、その数字の後ろに、あなたがいることを見せてもいい」

「私が、いることを?」

「おばあさんの孫の話から始まる報告書を書いた人間が、そこにいる。それが伝われば、三つ目の人たちが動くかもしれない」

 エリナは、フィオナの言葉を少しだけ考えた。

「数字の奥に人がいることを、忘れないようにしたい」

「え?」

「レインが言っていた言葉です」

「……そういうことを言うのね、あの人は」

 フィオナが少し目を細めた。

「あなたにしか言わないと思うけど」

「そうかもしれません」

「じゃあ、明日はそれを持って行きなさい。数字と、その奥にいる人たちのことを」

 夜、エリナは部屋の机に向かった。

 レインへの短い手紙を書いた。

 レインへ

 王都に着いた。フィオナと夕食を食べた。明日、最終確認をして、明後日謁見の間に立つ。

 あなたが同じ部屋にいることを、フィオナから確認した。

『あなたがいてくれれば、少し落ち着けると思う』と書いた。今も、そう思っている。

 明後日、そこにいてほしい。

                                      ――エリナ――

 書いて、封をした。

 明後日、届ける。

 今日出しても、郵便では間に合わない。

 だから、明後日、直接渡す。

 エリナはその封筒を、荷物の中の一番取り出しやすい場所に入れた。

 ランプを吹き消した。

 王都の夜は、ルシェムより少し明るかった。

 街の灯りが、窓の外に滲んでいた。

 明後日。

 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 今日、出発した場所から、ここまで来た。

 明後日、父が夢見た場所に立つ。

 一人ではない。

 それだけは確かだ。

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